淡路人形座訪問
(其の現状と由來)

竹内勝太郎

淡路人形座訪問
(其の現状と由來)書籍情報

底本:「芸術民俗学研究」福村書店
   1959(昭和34)年3月1日発行
※以下のルビ中の拗音、促音を、小書きしました。「藝術(アマチュール)」「技術(テクニック)」
※「起源」と「起原」、「大神」と「太神」、「蛭子」と「蛭兒」の混在は底本通りです。また、以下の箇所で底本の誤植を疑いましたが、「藝術民俗學研究」立命館出版(1934(昭和9)年9月5日発行)でも同様であり、正誤の判定に困難を感じましたので底本通りにしました。「竹内勝太郎全集 第二巻」思潮社(1968(昭和43)年1月30日発行)では矢印の後ろの形になっていました。
○p147-4睛れやかな【睛→晴】
○p148-3布望したが、【布望→希望】
○p171-11黄金の採鑛精練→【精練→精錬】
入力:ブラン
校正:門田裕志、小林繁雄

淡路人形座訪問
(其の現状と由來)

竹内勝太郎

 一、地元踏査

 一月十日雪の後の睛れやかな明石海峽を渡つて洲本へ上つた。同行三人、榊原紫峰君と青年畫家の片山君。とつつきに遊女町があるのも古い港の情趣であらう。既に夕闇が迫つゐるので外出を斷念した。地圖をひろげて明日の踏査のプランを考へ、曉鐘成編「淡路國名所圖會」その他を調べて二三準備をするにとどめた。
 同夜は宿を頼んだ同好の士島醫學士の厚意に依つて、特に三條村から操座を招いて、同家二階座敷に欄干(てすり)を急造して演出して貰つた。これは淡路でも最も古い上村源之丞の座元を預つてゐる吉田傳次郎氏の一座であつて、恰も正月の休みに各巡業地先から操の人々が歸つて來てゐるので、今夜の操(てすり)役は皆一流の上手ばかりを撰りすぐつて來たと云ふことであつた。三味線は土地の盲人師匠、太夫は素人の巧者と云ふ組合せで、それがまた一層民俗藝術の匂ひと色を強くした。演出曲目は成る可く古曲をと布望したが、舞臺が完全でない上に、小道具や衣裳や人形の頭など特殊なものを要求する關係から目ざした「國性爺」は見られず、先づ吉例「夷舞はし」と「三番叟」から始めて、華やかな「太閤記」尼ヶ崎の段、すすけた「恨鮫鞘」鰻谷の段、古風な「河原達引」堀川の段稽古場の五番が演ぜられた。
 然しその演技は豫想した程古拙でもなくまた土の匂ひも淡かつた。演出後吉田氏や來合せた土地の古老から操の由來に就いていろいろ質問して見たが、吉井太郎氏その他に依つて既に發表されてゐること以外には餘り多くの新説は聞き得なかつた。此の夜の私の手帳に筆録された分量は貧弱であつた。紫峰君自身は古い頭を求めるつもりで豫め蒐集を依頼してあつたらしいが、前回の時程優秀な古品は尠く、之れも大した收穫はなかつた模樣である。私達は稍※(二の字点、1-2-22)悲觀せざるを得なかつた。
 翌日は朝早く鼓の音に目をさまされた。訊いて見ると松の内のことで操の「三番叟祝ひ」が人形を持つて町家を廻つてゐるのだと云ふ。流石は地元だと昨夜の失望を取返して、島夫人に頼んでその一組を呼びこんだ。人形を舞はすものが三番叟を謠ひ、笛を吹き、鼓を打つものは扇型の薄い木片で拍子を取りつつ鼓を打ち、時に千歳黒尉の掛合に相方を務める。この人形は極小く、約一尺五寸位であるが、演技は昨夜の操と大差はない。幾分の短縮と粗雜さとがあることは云ふまでもない。然もこの謝儀は願主の心持次第であるが、先づ五錢が通り相場だと云ふに至つては寧ろ低額に過ぎ、彼等の經濟組織が依然封建時代的であるのに驚いた。
 朝食後自動車を傭うて片山君の案内で三原郡市村字三條に向つた。朝からの曇り空は遂に淡路に珍らしい雪を降らした。途中廣田村字廣田の廣田八幡を訪ねて、一路目的地三條の三條八幡に着いた。社頭の松の下に雪を避け、藁を焚いて暖を取りながら、吉田氏の内方に斡旋を乞うて百太夫社の開扉を待つたが、生憎責任者の組長が不在で遂に不可能となり、宿望の百太夫像は見られずに終つた。止むなく社殿をめぐつて資料を漁ることとした。八幡宮の社殿は拜殿と接續してゐる。その左方に別棟で小社が新築されてある。之れが百太夫であると云ふが、神前に掲げられた扁額を見ると中央に「事代主神社」とあり、その右に「道薫坊」「百太夫」と並べ、左に「秋葉神」と書いてある。之れで見ると道薫坊と百太夫は昔から殆ど異名同體の如き取扱ひを受けてゐたことを示してゐるのではないかと思はれる。事代主が夷三郎を意味してゐることは明かで、夷三郎と百太夫との關係は周知の事實としても、茲に秋葉神が合祀されてゐるのは何の理由に依るのか甚だ了解に苦しんだ。
 然るに拜殿の前の石燈籠には中央上部に「蛭子大神宮」とあり、その下に向つて右に「願主源之丞」「座中」「天明五乙巳十一月吉日」と並び、左に「村中」と刻んであるのを發見した。さうして見れば古くはこの社殿には八幡宮と夷三郎と一緒に合祀されてあつたのが、後に八幡宮と夷三郎とが別れて、夷三郎と百太夫との社殿が新に造營されたのではないかと想像された。のみならず源之丞座中が村中と對立してゐるのは當時の三條村が源之丞座に依つて代表されてゐたとも見られ、或は源之丞即三條村であつたことを暗示するものと考へられる。尚拜殿の天井には「源之丞座中」と書いた、古く操に持廻つた確に人形の箱らしく思はれる形の木函が奉納されて吊り下げてあつたし、また片隅の棚には嘉永六年の年號のある古風な行燈が乘せてあつた。昔はこの社殿の前で操を演じたと云ふことであるから、この行燈などもそんな場合に用ゐられたものではなからうか。それから社殿の西側に相當大きな平家建があるので、何か祭神の器具でも納めてあるのかと想像して案内の吉田家の人に訊ねて見たが、これは村の人達の集會所に充てられるもので、何も這入つてはゐないと云ふことであつた。して見ると三條では今でも明かに此の八幡宮を中心にして聚落生活が行はれてゐることがわかるのである。
 市村には別に立派な市の蛭子神社があるが雪が益※(二の字点、1-2-22)降りしきるので斷念して、間近い元祖上村源之丞の家を訪ねて見た。然し之れも當代の源之丞は一家をあげて二十年程前に徳島に移轉してゐるので何物も見せて貰ふ譯にはゆかない。ただ古い門構へや、その傍に長い納屋風の人形倉が並んでゐる樣子が如何にも古い座元の家らしく感じられて興味が深かつた。歸途は四國街道の養宜(やぎ)の松原を眞直ぐに取つて、途中廣田村中條(なかすぢ)の蛭子神社に立寄り、夕刻洲本の宿へ歸り着いた。
 同夜は、土地の藝術(アマチュール)愛好者の集りさつき會の招待を受け、その席で人形や美術の話に夜をふかしたが、流石に人形の本場だけに今尚一般に義太夫淨瑠璃の盛んなことは想像以上であり、大抵の人がこの藝を嗜まぬものはない有樣であるのに、今更ながら民俗藝術の力の大きさを痛感させられたのであつた。
 翌十二日は前夜の大風雪の爲め兵庫洲本間の最終定期船が休航したので豫定の時間に船が出ない。歸りの都合もある處からやむを得ず再度自動車を傭うて海岸線を岩屋へぬけた。途中鹽田村で土地の祭と見えて、赤烏帽子の子供が二人櫓太鼓の上に乘つて之れを打ち、同じやうな子供二三十人が之れを擔いでワッショワッショと押し出してゆくのに出會つた。これは全部子供の祭で、大人連は見物しながら聲援してやつてゐる。如何にものどかな漁村の氣持が出てゐて愉快であつた。岩屋からポンポン蒸汽で明石へ渡り、神戸大阪を經てこの行を終つた。

         二、人形操の現状

 昔盛況を極めた頃の人形座の組織は四十人乃至五十人を以て一座とされてゐたが、現在では普通人形十五六人、太夫三味線弟子等合して十七人位が一座を組んでゆく。基本的な人形座の組織は最少限度八人とされてゐる。「淡路國名所圖會」には「凡其座元といふ者二十軒餘もあるよし。」とあるが目下淡路に現存する人形座は三條の上村源之丞、志筑町の淡路源之丞、鮎原村の小林六太夫、市の市村六之丞の四つ、約六十人位の遣ひ手がある。この外伊豫と阿波とに小さな座が出來て居ると云ふ。明治以前には三條だけでも住民七八十戸が全部人形操を業としてゐたが、操の衰微と共に次第に農業その他に轉じてしまつた。一番古い家柄の上村源之丞が既に徳島へ移つて寄席興行主になつてゐるのを見てもそれは想像に難くない。人形細工人の方は元來主として徳島が本場で、時たま淡路にも出來るが之れは專業ではなく、農業の片手間仕事であるから自然その技術も優れたものはなかつた。
 現在淡路人形操の巡業先はそれぞれ固定した地盤とも見るべきものがあつて、各自その地域を守つてゐる。例へば全體的に見れば、彼等の巡業地は九州・四國・中國・近畿等可なり廣汎に渡つてゐるが、そのうち四國でも土佐だけは操に頗る縁が薄く、彼等は餘り這入つてゆかない。そして九州一圓は市村六之丞、紀州を主として大和・河内・和泉は小林六太夫、中國地方は淡路源之丞、伊豫を中心にして阿波・讃岐・攝津等は上村源之丞の地盤と云ふ風になつてゐる。尚中國地方などでは座に屬さずに路傍で一人遣ひの單純な操を演じて廻る門附(かどづけ)の人形操の獨立した一團が相當に存在してゐる。
 右のうちで最も操趣味の盛んなのは伊豫である。元日から暮の大晦日まで毎年々々繰返して一年中巡業することが出來るのは伊豫だけであると云はれてゐる。伊豫では古くから一年の各月をそれぞれ群町村に割當てて巡業日を豫定してある。殊に冬期の見物の爲には芝居炬燵と云ふ特種な保温具まで出來てゐる位である。之れに續いて盛んだつたのは紀伊で、小林六太夫と紀州との關係は相當に深いものがあつたらしく、紀州侯から座元に三葉葵の定紋を許されてゐたと云ふ。即ち此の人形座は紀伊領一圓には有利な特權を得てゐたのである。
 然しながら近來各座共床の方が手薄になつて、座附太夫の他に追抱太夫と云ふ制度を設けて、臨時に太夫を傭ふことになつてゐる。和歌山の淨曲家千田梅家軒氏の談に依ると、九州巡業の市村六之丞の方では一年契約で一日最低九圓から最高十三圓と云ふ取りきめである。尚その他の待遇をあげると、座附太夫と別看板をあげること、汽車汽船は二等、乘物のある土地では凡てこれを支給し、宿は別館で附人一人の實費を全部負擔する他に髯剃一週二度、散髮二週一度實費を辨償する。興行日數は通例一回二十四五日と云ふから追抱太夫の收入は相當額に達する譯である。そしてその勤務は主として世話物語りが持場で、之れは太夫の選擇に依つて毎日出し物をきめるが、別に忠臣藏の九段目と太閤記の十段とは必らず座元の指定通り語らねばならぬ義務を負はされる。但し座の弟子達に對する稽古は自由で、必らずしもせねばならぬ義務はなく、太夫の心持次第と云ふことになつてゐると云ふ。
 人形座の現在に於ける社會的地位に就いては既に古來の特殊的な待遇を以て扱はれることはなくなつてゐるやうである。が矢張り結婚その他の關係になると一般の人から好まれない模樣が見える。彼等が特殊な部落であると云ふ氣持は一種拔き難い觀念となつて他地方の人々の間に殘つて居り、ともすればそれが外に表はれて、一般民衆から好感を持たれない形となつてゐることは蔽ひ難い事實である。
 然し私の見た限りの上村源之丞の操は殆ど文樂座のそれと大差はなかつた。主役の人形を三人で使ふのも、人形の眼・眉・口・指等が動くのも、又人形の大さも殆ど同じである。それとこれとは恐らく創設以來密接な相關關係があつて、相互に影響し合つたであらうと云ふことは想像に難くない。義太夫物で一番古いとされてゐるのは矢張り近松作の「國性爺」と「心中天網島」であるが、それとても敢へて文樂以前の古體、特別に舊い形式手法が殘つてゐるのではない。勿論細部に渉つて稠密な比較研究を行つたならば、地方的な色彩なり古風な樣式なりが保存されてゐるだらうと云ふことは否定されない。だが之れは一つの大きなメトオドのなかの小さな變化であるにとどまつて、メトオドそのものの相違と見なすことは出來ない。從つてそこには淡路の人形操を特質づけるものが存在しない。この意味から云へば上村源之丞の操は方法論的にも形態論的にも文樂の操と全然同じ範疇に屬するものと斷定して差支へないのである。
 然しながらそれは義太夫物に限つての話である。淡路ではこの外に必らず序曲的上演題目として「夷舞はし」「三番叟」の二曲を持つてゐることを忘れてはならない。此の人形に限つて二人が遣ふ(一人が頭と兩手、一人が兩足)ことになつてゐる。それだけに、義太夫物とは違つた古いメトオドを持つてゐるのである。尤も「夷舞はし」の方は古來のものとは非常に變化してゐると云ふことが吉田傳次郎氏の談片にあつたが之れは信じられると思ふ。即ち「夷舞はし」は人形操に依つて生れた漁撈農耕の豐饒を祈る祝祭的行事であるが故に、民衆の要求に從つて民族心理の變化と共に演ずる内容形式に變化を受けるであらうと云ふ事は自然の經路であるからである。之れに比較すれば「三番叟」は比較的によく古來の形式を守つて來てゐるらしい。何故なら「三番叟」そのものが古く能樂以前から一つの形式が出來てしまつて居り、その出來上つた形式を人形に持ちこんだのであるから、一種の宗教的儀式の如く餘りに多く時代的變化を蒙ることなしに、忠實に傳統を遵奉されて來たものであらう。これは能の翁を見ても證據立てられるし、吉田氏自身も承認してゐた。この點から見れば「三番叟」が現存の操の最も古曲と考へられるのみでなく、その「三番叟」と「夷舞はし」の二曲を淡路の人形座が常に上演曲目(レペルトワル)に加へてゐることに依つて、始めてそれは文樂と異つた特殊な存在であることを主張することが出來るのである。即ち文樂座は明かに純藝術的な演技であるが上村源之丞座は未だ全部が純藝術的になり切らない、宗教的意義の名殘をとどめてゐる過渡的な演技を含むと云ふべきである。そこに淡路人形操の正しい位置がある。

         三、操座の由來

 淡路の人形で最も歴史の古いのは勿論三原郡市村字三條の上村源之丞座である。津名郡志筑町の淡路源之丞座は比較的新しく、同郡鮎原村の小林六太夫座よりも後のものであると云ふ。吉田氏の説に依れば約百年位前の創設であらうと云ふ事であつたが、それは勿論確實な根據のあるものではない、種々の事情を綜合して考へれば少くとも二百年位には溯り得ると思はれる。然もこの最も新しいとされる座が代表的な淡路源之丞の名を持つてゐるのは不思議であるが、調べて見ると最初は上村源左衞門と稱して上村源之丞の一派であつたのを後、諸國巡業に際して人形の元祖として古く賣りこまれた源之丞の名が芝居道の團十郎菊五郎の名の如く勢力を持つを見て、之れを襲用することの便利さを感じて淡路源之丞と改名したと云ふのが眞相らしい。從つて地元では淡路と云ふやうな土地全體を代表するやうな名を認めず、却つてその座元所在の地名を被せて志筑源之丞と呼ぶのが通例になつて居るやうである。
 上村源之丞座の由來に就いては既述の通り吉井太郎氏が發表されたやうなことが座元の人々に依つて傳へられてゐる以外に明確な資料は得られない。吉田氏や土地の古老の言葉を要約すれば、昔人形舞はしの百太夫と云ふものが三條へやつて來て、菊太夫と云ふものの娘と結婚したが、その間に出來た子に自分の業をつがせた。之れが淡路人形操の根元であると云ふことになつてゐる。そしてこの百太夫が道薫坊であるとも云ひ、百太夫が道薫坊と云ふ人形を持つて來たとも云ふ。それで見ると一應淡路の人形操は他地方から傳へられたものであり、百太夫がその祖であると解されるが、抑※(二の字点、1-2-22)その百太夫と云ふものの本體が頗る捕捉し難いものであるから、結局これが疑問の焦點となつて來るのである。
 處でこの百太夫が西宮の夷神社と關係の深いことは前記吉井氏の研究に依つて明かにされ、同社の末社に百太夫社があることも又それが西宮傀儡師の祭神であることも裏書された。そしてこの西宮傀儡師が定住した部落は今尚西宮市の西宮神社の北に地名として殘つてゐる産所である。然るに淡路操座のある市村字三條は古く産所と書き、現在も尚地元の人々に依つて短く「さんじよ」と發音されてゐる。のみならず私の地元踏査に依つて百太夫社は夷社と合祀されて、三條八幡の攝社となつて居り、西宮の夷神社が廣田神社の攝社であり、百太夫社がその末社であるのと同巧異曲であることがわかつた。これで見ると西宮産所と市村字三條との關係が略※(二の字点、1-2-22)想像されるのであるが、更にこの市村に隣接する廣田村の歴史が一層西宮と淡路との關係を密接にする。
 廣田村は古くは廣田郷と呼ばれた。淡路國名所圖會所載の「東鑑」の記事に依れば、「壽永三年四月二十八日、平氏在西國、之由風聞ス仍テ被遣軍兵、爲二征罰無事御祈祷一、以テ淡路國廣田庄ヲ被ル寄附廣田社ニ。寄進。廣田社神領。在淡路國廣田領一所。右爲ニ増神威、殊ニ存祈祷ヲ、寄進如件。壽永三年四月二十八日。正四位下源朝臣。」云々とある。之れは西宮廣田神社の神領として淡路の廣田郷、今の三原郡廣田村を源頼朝が寄進したのである。廣田村には前記の通り廣田八幡があり、廣田村字中條(なかすぢ)には同社の御旅所と向ひ合つて蛭子社がある。西宮と淡路との因縁は斯樣に古く、又深いのである。
 然らば西宮産所の百太夫に擬せられる傀儡子が淡路の産所を目ざして出て來たのも偶然ではなく、來るべき充分の理由があつたのであらう。即ち同一部落の交通がそこに暗示されてゐる。加之彼が入家した家の名が菊太夫と云ふことを考へれば之れも何か傀儡子に縁のありさうな名である。或は百太夫以前にこの産所に極めて原始的な傀儡子があつたのではないか。名所圖會に、「里老の傳説に往昔(むかし)西宮に百太夫と言(いふ)もの木偶(にんぎやう)を携へ淡路に來り、此村の麻績堂(をうみだう)に長く寄宿せり。時に此村の木偶師(にんぎやうし)菊太夫なるもの百太夫を伴ひ歸り留ける内、菊太夫が娘に契りて懷胎す。」とある。之れは私の考を裏書するやうである。麻績堂(をうみだう)に就いては同じ名所圖會が次のやうに記して居る。「一説に總社の祭禮に産穢の者はいづれも避けて當村の麻績堂に産育せし故こゝを産所といふ。(中略)又飯山寺社記には伊弉諾伊弉册の二神日神月神蛭兒素盞嗚等を生給ふ地なるゆへに産生(さんしやう)といふと作れり。今は大御堂といへり。秉穗録云、麻績堂は國中の婦人會聚して麻を績(うみ)たる所なり云々。」淡路と麻との關係に就いては津名郡來馬(くるま)村に伊勢久留麻神社があり、名所圖會に、「一書ニ伊勢の久留眞(くるまの)神社は(中略)麻を植そめし神にて阿州麻殖郡(をゑのこうり)にも同神あり。」と述べてゐる。然も同社は延喜式に「淡路國津名郡伊勢來留麻神社」と出てゐるから由來する處遠く、從つて淡路には古くから製麻が盛んだつたのであらう。吉田氏の言に依れば今の三條八幡が即ち元の大御堂と稱へられた處で、正しくは緒紡(をみ)堂と書くべきであり、これは昔村の人々が集つて緒を紡ぐ集會所であつたのだと云ふ。麻の緒を紡ぐことと人形との關係も一應考へて見る必要があるが、産所の部落民達はこれで見ると他村とは違つた共同的な生産事業を營んでゐたものらしい。そしてそれは一般人とは變つた、即ち上古の雜戸の部に屬する特殊な仕事であつたのだらうとも考へられる。例へば京阪地方で産兒の宮詣り(男兒は出産後三十一日目女兒は三十日目に産土神(うぶすな)に健康と幸福をさづかりに來る)に必らず麻緒を産衣に結びつける、それも近親ではなくて、近隣の人々に結んで貰ふ土俗があるのは、この産所の緒紡ぎと何等かの關係があつたことを暗示するものではなからうか。さうとすれば彼等はこの他村のやらぬ緒紡ぎを生業として、その傍、人形も舞はした。そこへ百太夫が現はれて最も進んだ西宮の操の方法(メトオド)と技術(テクニック)とを傳へて、彼等の人形舞はしに革命を與へた。そして淡路人形操の元祖となつた。とこんな風に解釋することが出來さうである。何れにしても淡路の人形が西宮に本源(オリヂン)を持つものであることは殆ど疑ひを容れない。
 百太夫定着の年代は元より明かでないが大體に於て鎌倉末期よりは下るまいと思ふ。そしてこの頃以後の人形がどの程度のものであり、どう云ふ經路に依つて發達したかと云ふことも到底適確には知る由もないが、操の各座元にはそれぞれ綸旨の寫しと、櫓の免許状と云ふものを持つてゐる。それ等の文書に記されてある年號もまた元よりそのまま肯定することは出來ないにしても元龜年間京師に上り、禁裡に於ける三社の神樂の際に召されて操を演じたと云ふことは大體信じていいことであらう。此時帝の御感に入つて從四位を賜つて居る。それから別に鷹司家御用の人足帳と云ふものが上村源之丞の座元にある。即ち鷹司家の人足として隷屬してゐると同時にその元締に當る座元には名字帶刀を免ぜられ鷹司家の定紋提灯を用ゐることを許されたのである。地方巡業の際この定紋提灯があると、源之丞座の興行地點を中心にその一里四方以内に於ては凡ての興行物は停止され、川越えの際には何人よりも先きに渡ることなどの特權が與へられて、中央政府なり貴族階級なりから特別の保護と獎勵とを加へられてゐたのであるから、彼等人形操の位置と技術とは當時の文化の中心から相當に認められてゐたと考へられると同時に、それだけ彼等の技術が進んだものであつたと云ふことも信じられる。
 然しながら、彼等の演出した曲目は「夷舞はし」と「三番叟」とが主體で、その後諸國巡業中京師やその他の文化の中心に觸れるに從つて次第に彼等の技術は展開し、新しい演出の方法(メトオド)と演出曲目(レパルトワル)とを發見し、添加して行つたであらう。例へば平曲から出た説教節や幸若舞曲風の要素が取入れられて、單純な物語の多少劇化したものをテキストに作りあげて、之れに依つて徐々に複雜な演出を試みたのであらうと思はれる。がこれを現在の操から見れば凡て比較にならぬ程原始的なものであつたに違ひない。近松と義太夫とが現はれて人形操にも一期を劃した。それは明かに急角度の轉回であつて、その後數年若しくは十數年にして人形操の方法(メトオド)は略※(二の字点、1-2-22)完成したと云つていいのである。それ以後は技術上の細部の發達に過ぎない。
 處がこの義太夫節淨瑠璃が如何にして淡路へ這入つて來たかと云ふと、これは大阪から直接にではなく、反對に阿波徳島方面から來たものらしい。何故なら第一に淡路では義太夫節のことを阿波淨瑠璃と云つてゐる。第二に淡路に於てこの淨瑠璃の最も盛んな土地は福良であり、近松の「國性爺」の如き古曲の大物は、洲本その他では既に語り得る人がなくなつてゐるのに、福良にはそれが尚立派に殘つてゐる、などのことを考へ合はすれば、私はさう云ふ結論に達せざるを得ないのである。福良は僅に鳴門海峽を隔てて阿波と隣接してゐる。阿波と義太夫との關係の密接であつたことは云ふまでもないが、これは阿波徳島の如き大藩の持つ文化圈の強大な力は、淡路の小藩を飛び越えて直接に京阪の文化中心と接觸を保ち、その影響を受けることが遙に迅速で且つ深かつたに違ひない。そこで義太夫節は先づ徳島に入り、更に之れが阿波淨瑠璃となつて福良に渡り、漸次洲本・由良・岩屋と淡路全島にひろがつたのではなからうか。そしてこの阿波淨瑠璃は福良・洲本の中間にある市村字三條に於て人形操と結合することに依つて當然其本源の竹本座の人形操をも移入する事になり、茲に淡路の人形淨瑠璃が誕生した譯であらうと考へられる。尚淡路と大阪文樂座との關係は、地元では淡路から文樂座が生れたと信じてゐる。即ち文樂座は文樂翁の創設にかかるものであり、文樂翁と云ふのは淡路假屋の人であると云ふ。私は尚この點を明かにする暇がないが、假令これが全部事實であるとしてもそれは阿波淨瑠璃渡來後、遙に後のことであるに違ひない。即ち淡路の人形操は大阪に於ける竹本座豐竹座の操發達後は多く之れの影響を受けつつ今日の状態にまで發達したものと信ぜられるのである。
 かやうに見て來ると淡路の人形操座は先づ西宮の夷舞はしに依つて第一期の原始的生長を行ひ、次いで大阪の義太夫淨瑠璃に依つて第二期の大成的發達を遂げて、茲に完成を告げたものと推斷することが出來る。

         四、人形源流考

 人形の起源に就いて地元の古老は次のやうな興味の深い傳説を聞かせてくれた。淡路では最初人身御供として神の犧牲に人間を供へてゐたのを後代になつて、人の形を作つて人間に代へるやうになつた、これが人形の始まりである。處で人形操を演ずる場所を芝居と呼ぶのは、上古この人身御供代用の人形をけがれたものとして家の中へ入れることが許されなかつたので、戸外の芝の上に並べて賣つた、人形をひさぐ處即ち芝居であつて、これが轉じて人形操をなす場所をも芝居と云ふやうになつたのである。――元より無稽の臆説であるけれども、そこには充分考察すべき多くの暗示を含んで居る。
 第一に考へ合せられるのは人間犧牲を人形に變へたと云ふことと、野見宿禰の殉死に代へる埴輪の話である。これは密接な關係があつて、恐らくこの場合の人間犧牲は殉死を意味するものであらう。さうとすればそれは葬送に關係した仕事であり、この點から彼等が人形をけがれたものとして取扱つた意味が諒解されて來る。葬送と墓造りと土器製作を掌つたのは土師部(はじべ)である。然らば淡路の人形造りは土師部であつたか。そしてまた土師部と人形操傀儡子とは關係があるのか。之れ等の點に就いては單に推定するより外はないが、津名郡に鳥飼村があり、名所圖會に「鳥飼莊。此傍邊をいふ。いにしへ鳥養部を置し所にやあらん。」といふのはその傍證になるかも知れないし、喜田貞吉博士がその「土師部考序論」(「民族と歴史」第五卷第三號)に於て、「是等の民は單に葬儀や墳墓の事などに從事するのみであつては、其の次第に増加する人口を糊するに足りなくなる。そこで彼等は身を浮浪漂泊の徒に伍し、祝言を述べ遊藝を演じて所謂ホカヒビトの仲間となる。」と書いたやうに、淡路に土師部がゐたと云ふことも、土師部が人形舞はしと結合したと云ふことも充分信じ得べき推定である。ただここにはつきり區別しておかなければならぬのは土師部の埴輪系統の人形と傀儡子の木偶系統の人形とは全然成立の根底が違つたものであると云ふ點で、之れは別稿「人形の二系統」に説いた通りであるが、淡路の傳説は人形と云ふ名の下に單純にこの二つを混淆したに過ぎない。
 更に考へられるのは三條=産所と土師部との關係である。土師部が上代の特殊部落であつたやうに産所は中古の特殊部落であつた。産所の本體に就いては尚定説がなく、喜田博士はこれを散所と解して定住地なく諸所に散在する賤民であるとし、柳田國男氏はこれを「算所」と判斷して算木卜占術を業とする特殊民であるとした。然し私は矢張り之れを普通に考へて産所即ち出産に關する諸種の仕事、産婆産科婦人科醫的な世話をする特殊部落であると信じたい。出産をけがれとする思想は日本民族固有のもので、彼等が一般聚落の地から稍※(二の字点、1-2-22)離れた處に産屋を建てて産婦を別火せしめた事は古事記以來の文獻に著しい古俗である。して見れば葬送のけがれにたづさはるのを業としてゐた土師部がやがて先述のやうな經濟的事情と社會生活の分業的發達とに依つて出産のけがれにもたづさはるやうになるのは自然の數ではなからうか。然も文化の進展と共に、算木卜占術を傳習して算所となり、更に社寺豪族に隷屬する下賤の奴僕となつて散所と呼ばれたのであらう。此の三つは一つのものの分化と見るべきで、決して別種の存在ではなかつたに違ひない。それのみでなく産所のうちにはまた祝言遊藝を業とするものが現はれ漂泊の傀儡子と混淆した。或はこの混合に依つて傀儡子は同じ特殊民の部落である産所に定住の地を求めるに至つたとも考へられる。西宮産所や、淡路市村の産所の傀儡子部落はかくして成立したのではあるまいか。然もこの淡路の傀儡子は祝言遊藝ばかりでなく、巫倡の業をも行つたらしいことが記録されてゐる。淡路國名所圖會卷之五に、「南光。同(鮎原)南谷村にあり、西村の境也。則土地の畝號によべり。此地は傀儡子の魃首(かしら)小林六太夫と私稱して其徒居住す。世俗此畝號(あざな)を用て南光部(なんくわうぐみ)とよぶ。其婦妻のものは死靈の占(うらかた)を業とす。是をたたき神子(みこ)といふ。梓神子(あづさみこ)のたぐひなりとぞ。」とある。即ち小林六太夫の操座では男子は人形を舞はし、婦女は巫子(みこ)となつて占卜をしてゐた。之れは恐らく非常に古くから彼等の取つてゐた生業(なりはひ)だつたのであらう。巫倡の徒が上古以來特殊な部落を作つてゐたことは史上に明かである。若し自由な想像を許されるならば彼等は最初おしら神系統の信仰を持つた巫女が主體であつたのが、後そのおしら樣が人形として發達した時、傀儡子と巫子とに分れ、傀儡子には男子が當つて、各地方に出歩くと云ふ分業が生じたとも考へることが出來よう。これは誠に興味の深い問題であると思ふ。
 然らば何が故に傀儡子は西宮と淡路の産所にその定住の地を求めたか。――此の疑問を解かうとした時私は當然夷三郎神にぶつかることになつた。抑※(二の字点、1-2-22)夷三郎神とは何であらう。喜田博士の「夷三郎考」(「民族と歴史」福神研究號)に依ればこれは夷神と三郎神との複合されたものであり、古くは之れが別個の存在で、夷は大國主命に、三郎は事代主神に比すべきであるとされた。俗傳に依つても夷三郎が事代主神であることは三條の百太夫合祀の夷神社の例に依つても明かであるが、一方には之れを諾册二神の御子蛭子(ひるこ)であるとする考も相當に廣く深いものがある。殊に蛭子と書いて「エビス」と讀ませてゐる程それは一般化してゐる。然しながら之等は凡て後人の思想を以て祭神を凡て古事記神代卷に現はれる神々にあてはめようとする結果出て來た説であつて、本來の夷、乃至夷三郎神なるものの信仰の對象なり、それに含まれてゐる宗教思想なりは、決して左樣なものではなかつたに違ひない。例へば當時の俗傳を最も忠實に蒐集したと見るべき「源平盛衰記」劍卷に、「蛭子は三年足立たぬ尊にておはしければ、天石※(「木+豫」、第4水準2-15-77)樟船に乘せ奉り、大海が原に押し出して流され給ひしが、攝津の國に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顯れ給うて、西の宮におはします。」とあるが、茲で重要なのは實はこの夷三郎が海を領する神と云ふ點だけであつて、それが蛭子でも事代主命でも大差はない。何れも後人が説明の爲に設けた想定神に過ぎない。何故なら夷と云ふ言葉は明かに他民族を意味するものであつて、それが大和民族固有の神でないことは論を要しない。從つて之れを神代卷の神々に當てはめるのは正しい意義を忘れてしまつた後代の人々の假托であることも云ふまでもあるまい。即ち夷三郎は大和民族以外の異種族の神であり、彼が海を領する神であるが故にこの信仰を持つた民族は海に關係の深い種族であつたに違ひないと考へられるのである。

         五、八幡神と夷三郎神

 日本へ夷三郎神を持つて來た民族の本體を考へる前に今一つ闡明を要する問題がある。それは夷三郎と殆ど必然的に不離の關係を持つてゐる八幡神の信仰である。恐らく八幡神程日本全國にあまねく行き渡つて、どんな寒村僻地にもその鎭座の社を見ぬ處はない程に一般化されてゐながら、その本體の不可解な神は他にない。八幡宮の祭神を應神天皇とする如きは矢張り後代の習合であつて、兩部神道では八幡大菩薩と呼ばれ、必らずしも最初から左樣に信じられてゐたのではないことを示してゐる。八幡大神の最も代表的な九州の宇佐八幡も最初は地方的な神であるに過ぎなかつた(萩野由之博士)。それが聖武天皇の東大寺大佛御造營に當つて、この八幡の神助を乞はれ、東大寺鎭守として勸請されたので、これ以來始めて宇佐八幡と中央文化圈との關係が生じたのである。然るに柳田國男氏が炭燒長者傳説を闡明して炭燒小五郎の物語の起原が宇佐八幡の最も古い神話であるとされた處から(「海南小記」)土田杏村氏は、宇佐八幡を聖武天皇が勸請されたのは大佛造營に必要な金及び銅を得んが爲めであつたとしてそれを柳田氏の説に結びつけて、宇佐八幡は採鑛冶金の民の神であると考へた(「上代の歌謠」)。之れは誠に興味深い着眼點であると思ふ。
 然しながら茲で更に今一つ考へなくてはならぬことは夷三郎神が海に關係があつたやうに八幡神も矢張り海に關係があると云ふ點である。その著しい例は宇佐八幡の細男(セイノウ)で、之れは筑紫の風俗歌舞らしい(小寺融吉氏)が、その起原に就いて、太平記卷三十九に記された俗傳に依ると、神功皇后が三韓征伐の參謀會議に當つてあらゆる天神地祇を招かれた時、大小の神々は常陸の鹿島に集つたが、ひとり海底に住む阿度部の磯良が召に應じない。これは永く水中の魚類に伍して貝殼や藻や蟲類が手足に取りついてゐる己れの醜さを耻ぢたからである。そこで神々は樂を奏して誘うた處、磯良は遂に感にたへて現はれ來り、やがて干滿の珠を龍宮へ借りに行つて皇軍の勝利をはかつたと云ふのである。そして豐前の志賀島の志賀明神は此の磯良を祀つて居り、この地元の傳説では右の神遊は鹿島でなくて、この志賀の濱邊であり、程遠くない合屋村の鼓打權現や笛吹權現は即ちその神遊びに鼓を打ち笛を吹いた神を祀つたのだと云つてゐる(小寺氏「近代舞踊史論」)。海神が干滿の珠を神功皇后に獻じたと云ふ傳説は廣く分布されて居り、京都の祇園祭に出る船鉾はこの物語を人形を以て表はしてゐる點で有名である。そしてこの細男と云ふ歌舞が宇佐八幡と密接な關係があることは我々に多くの暗示を與へるが、更に重要なのはこの歌舞が人間の所演のみではなく、人形を以て演ずることが主體となつてゐるらしい點で、傀儡子の發生を考へる際には實に見逃し難いものである。濱田青陵博士の「古表八幡の傀儡子」に依れば、豐前古表八幡社の末社四十體神社に三十六體の古朴な傀儡がある。(古くは四十體あつた。)これは宇佐八幡の放生會の時船に乘せて持つて行つて細男の舞を演じたものである。作は鎌倉初期と考へられてゐる。尚山城離宮八幡にも細男と稱して祭に用ゐる二個の大傀儡が收藏されてゐるとある。細男と八幡との關係が密接であることはこれで明かであり、それが海上で演ずると云ふことは傳説が教へる通り八幡神が海から來た、若しくは海と關係の深いことを示してゐる。想ふに筑紫を中心にした北部九州に一つの文化圈を形造つてゐた部族は、朝鮮海峽から渤海灣、東支那海一帶に渉つて海上に勢力を振つてゐたのではなからうか。この爲めに神功皇后は朝鮮半島へ渡海さるるに際して彼等の勢力を利用されたのであると考へられぬだらうか。
 八幡神は此の部族の神である。夷三郎もまたその附屬神或は眷屬神の一つである。西宮廣田神社の祭神が天照大神即ち大日靈尊のに荒魂であると云ふ説(「日本記」)も明かに學人の後作説であつて、寧ろ神功皇后とも八幡同體とも云ふとした俗傳(「二十二社本縁」)の方が眞相に近い。地元の舊傳に依れば廣田神社は神功皇后三韓征伐の舊陣に兵庫の港へ船を寄せられた時、現はれて皇軍を迎へ奉つた神を祀つたものであるとして居る。更に「石清水宮寺縁事抄」(喜田貞吉博士「夷三郎考」引)には「攝津國武庫山ハ神功皇后異國ヲ討給時、三萬八千荒神ノ武兵ヲ置給山也。仍稱二武庫山一。其三萬八千荒神ハ御二座西宮一。」と云つてゐる。これ等のことは何を語るか。神功皇后が制海權を握つてゐたらしい北九州の部族の協力を求められたこと、八幡神はこの部族の神であり、この部族の功を賞してその祖(おほおや)を祀られた廣田神社が八幡同體であること、夷三郎はこの八幡の眷族であり、部屬の民を象徴してゐるらしいこと等である。
 然らばこの八幡を神としてゐた部族は如何なる民であつたかと云ふことは本論の根本であるけれども之れは容易に決し難い。ただ茲に一つの手がかりとなると思はれるのは北九州臼杵地方の磨崖石佛群の存在である。京大の小川琢治博士はこれを逸早く研究調査されたが、その談に依ると、そのうちの不動明王像で普通の法繩の代りに蛇を持つてゐるのがある。然もその蛇は一般の蛇でなく印度産の毒蛇コブラを思はせる程頭の大きい蛇形を示してゐる。即ちこれは一見あり來たりの不動明王ではなく、何か印度教の神であるかの如き感を抱かせる。これに依つて觀れば、非常に印度教化された佛教が海路シャム・安南・カムボヂヤ等を經て廣東に入り、轉じて北九州に傳はつたのではないかと考へられる。之等の中心となつたのが例の彦山である。そして八幡神も根原はそこにあると見たい。津名郡釜口村(浦村)の旗山八萬宮に對する名所圖會の記述は云ふ。「當社八幡太神の御像は僧形なりとぞ。是は空海宇佐の宮へ參籠の時出現ありし御像にて、山城國高雄山神護寺に藏むる所と同じと寺記に見えたり。」即ち兩部神道の思想であらうが、かく僧形で顯現したりする處はどうしてもただの兩部神道でなく、もつと佛教的特に印度教化された佛教的の色彩が濃い。尚津名郡大谷村の大谷八幡宮に就いて、「例祭六月十五日。此日小麥を以て酒を造り神前に備へ、參詣の村民に酌て呑しむ。小麥造の酒味不佳なれども恒例の事にして今に怠ることなし。當社は宇佐より勸請すといふ。」と名所圖會が傳へてゐる。小麥で酒を造る事は日本民族の古風にない。之れまた八幡神が異種族の神であることを證するものではないか。そしてまた一方八幡と彦山との關係を考へることに依つて修驗道の神火の神の秋葉神が三條の蛭子社に百太夫と共に合祀されてゐることも諒解されるやうになるのではないかと思ふ。中古以來彦山は修驗道の本山であつたがその本源は全く不明と云ふ外はない。然も北九州一圓に於ける勢力は偉大で絶對の信仰を把握したのみならず、徳川幕府に對してさへ治外法權を認めさせてゐた。彼等は早くから大和朝廷に於ける中央文化圈の佛教とは趣きを異にした別種の佛教、即ち印度教化した佛教の法幢を樹て、教權を布いてゐたのであらう。人種人類學上の研究と學説がどんな風に進んでゐるか私はその現状を詳かにしないが、西村眞次氏の説に依れば水田耕作法その他を傳へたものとして印度支那民族の血が日本民族のなかに混入してゐることを跡づけ得ると云ふ。若し之れを信ずるならば北部九州に於ける特殊な印度系統の宗教この神々を信仰してゐた一部族の集團、及びこの集團が形造つてゐた異種の文化圈の存在をこの印度支那系統の民族に依つて説明することが出來るかも知れない。
 八幡信仰の部族は海上交通權を掌握してゐたが、一方に於てはまた金銀の採鑛冶金の術にも長じてゐた。之は大和朝廷の天孫民族にも知られてゐなかつたし、先住民族の土蜘蛛やアイヌ族にも知られてゐなかつた。銅及鐵の採鑛は知られてゐたらしいが黄金の採鑛精練には通じてゐなかつたらしい。それで彼等北部九州の部族は海上交通權を握ると共に一方日本島内に海陸相連絡して次第に遠く深く入りこんで行つて、金銀銅の諸鑛山を求めたのであらう。そして彼等の足跡の至る所八幡神の信仰を殘して行つた。これが八幡の社が日本全國にあまねく分布してゐる理由であらうと思ふ。夷三郎の方は海上の神として何處までも海邊にとどまつた。海上の神はやがて海産物の神となり、次いで海の産物と山野の産物との交換、山の物と田の物、工作物と農作物、これ等物々交換の市の神となり、更に轉じて商ひの神となつた。ここに夷三郎信仰の定着を見る。陸へ上つた八幡神はその定着の經路が明かでないが、一つは神功皇后三韓征伐に對する軍功と、採鑛冶金の術が武器の製作と密接に關係してゐる處から武家の守護神となり、一般民衆の爲めには惡魔折伏の神となつたのではなからうか。